松阪市(歴史)概要: 市内には四隅突出墳(出雲地方独特の古墳形式)とされる八幡古墳があるなど古代出雲と関係が深かったと推定される地域で、雲出川や須賀神社、八雲神社などの名称も残っています。又、都と伊勢神宮を繋ぐ街道が通過していた事から比較的早くから高い文化が入り釜生田遺跡からは日本最大級の鴟尾が、片部遺跡からは日本最古の墨書文字が発見されています。朝見遺跡でも平安時代の条里制跡や越州窯系青磁片、墨書土器片などが発見され優れた文化があった事が示されています。又、宝塚古墳は伊勢地方最大規模を誇る(全長111m、後円部径75m、高さ10m、前方部幅66m、高さ7m)前方後円墳で平安時代豪族として当地方を支配した飯高氏の祖先の乙加豆知命の墳墓と推定されています。
中世に入ると伊勢国司となった北畠氏の支配下に入り、松阪市周辺は大河内城を本拠とする大河内御所(北畠顕雅が祖)が北畠三御所の筆頭として支配します。戦国時代に入ると織田信長と対立し永禄12年(1569)に大河内城が落城、北畠の名跡を織田信雄に譲り、事実上北畠家は没落します。天正8年(1580)、信雄は田丸城から松ヶ島城に本拠を移し本格的に伊勢領内の整備を行いますが羽柴秀吉との対立から改易になり、秀吉に従った蒲生氏郷が松ヶ島城12万石の領主として入封します。氏郷は松ヶ島が海岸近すぎる事を嫌い天正16年に松阪城を築城、城下町も整備して現在の市街地の基礎となる事業を行います。
その後、松阪に配された古田重勝が関ヶ原の戦いで東軍に与した事で領地が安堵され松阪藩を立藩、しかし、元和5年(1619)、2代藩主古田重治が浜田城(島根県浜田市)に移封になると廃藩となります。領内は徳川御三家である紀州藩領に組み込まれ、松阪城には城代が派遣されました。その為、旧紀州藩と関係が強く明治維新後は一時、和歌山県の飛地となった事があります。
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