菰野町(歴史)概要: 町内には江野遺跡、大久保遺跡、六谷遺跡などが点在し比較的早くから人々が生活していた痕跡が見られます。特に大久保遺跡は縄文時代、鎌倉時代、室町時代、六谷遺跡は縄文時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代の複合遺跡で各時代、時代に人々が暮らしていた事が分かります。現在のところ大型古墳が見つかっていないところから、巨大な権力を持った豪族はいなかったようですが、飛塚古墳(直径30m)や七ツ塚古墳群などが一定以上の階級の支配者の存在を示しています。三岳寺廃寺跡は大同2年(807)に比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の伝教大師最澄によって開かれた古代寺院跡と伝えられるもので中世には多くの僧兵を擁する大寺院となり大きな影響力を持ちましたが永禄11年(1568)、織田信長の北伊勢侵攻の兵火により廃寺となっています。
中世に菰野町周辺を支配したのは千種家で南北朝時代には忠顕が南朝方に組みして功があり三重郡24郷を与えられ、北勢48家の豪族を率いる首領格として大きな影響力を持ちました。戦国時代に入ると一時近江守護職の佐々木六角家の支配下となりましたが、織田信長の台頭により六角氏が滅び、北伊勢に侵攻されると軍門に下ります。その後、千種家は織田信長の次男織田信雄に従った為、本能寺の変で信長が死去すると豊臣秀吉と対立を招き、天正12年(1584)、秀吉方の蒲生氏郷が千種城を落城させています。江戸時代に入ると土方雄氏が菰野領1万2千石を与えられ菰野藩を立藩、陣屋を設けて周辺には武家屋敷や町家を配するなど現在の菰野町の基礎を築きます。土方家が12代藩主を歴任し明治維新を迎えています。
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