鈴鹿市(歴史)概要: 市内は伊勢国の中心だった地域で広瀬町には国府、国分町には国分寺、国分尼寺が設置されました。一宮は椿大神社と都波岐神社が比定され何れも市内に鎮座しています。中世に入ると伊勢国司北畠氏の支配下に入り、時代が下がると関氏一族の神戸氏が北伊勢地方で大きな影響力を持つようになります。戦国時代に入ると神戸氏は一時、近江守護職の佐々木六角氏に下りますが、織田信長が台頭し六角氏が滅亡すると信長に臣従し信長3男信孝を養子として迎え事実上神戸氏は没落します。信長の死後、羽柴秀吉と対立した信孝は賤ヶ岳の戦いで敗れ自刃、伊勢は信長の2男織田信雄に与えられ、神戸城には家老である林与五郎が入り神戸氏の名席を継いでします。しかし、今度は秀吉と信雄が対立し神戸城は秀吉の家臣蒲生氏郷によって接収されます。江戸時代に入ると一柳直盛が5万石で入封し神戸藩を立藩、その後、天領、石川家を挟み享保17年(1732)に本多忠統が1万石で入封すると、本多家が7代藩主を歴任して明治維新を迎えています。尚、市内には東海道が通り石薬師宿と庄野宿は宿場町として多くの旅人を迎え入れ発展しました。
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