伊勢市(歴史)概要: 垂仁天皇26年(紀元前4年)、倭姫命(垂仁天皇の第4皇女)が天照大神を祀る鎮座地を求めて当地を訪れると聖地と悟り皇大神宮(伊勢神宮:内宮)を建立、さらに、雄略天皇22年(478)、丹波国の等由気大神(豊受大御神)を勧請し豊受大神宮(伊勢神宮:外宮)を建立しました。この両社を併せて伊勢神宮と称し、伊勢市はその門前町として発展しました。内宮に祀られる天照大神はの天皇家の祖神である事から歴代天皇から司祭され、特に南北朝時代までは未婚の内親王や女王が天皇の御杖代である斎王として祭祀を司りました。又、20年毎に行われる式年遷宮や日々の祭祀で利用される神宝、神具の技術者の住まいが軒を連ね「神都」と呼ばれる都市へと発展し時の為政者にも権力が及ばない不可侵の聖域とされました。ただし、歴代為政者からは特段に崇敬庇護され、平清盛や源頼朝、足利尊氏、足利義満などは多くの神領、神宝を寄進、奉納しています。
元々、天皇以外の奉幣は禁止され、その後も一部の高家だけという限られた存在だった事から朝廷が衰退し、室町幕府が衰退すると、資金不足から約130年の間式年遷宮が行われず技術者の離散を招き仮殿遷宮のみとなりました。戦国時代末期になると慶光院の清順が広く浄財を集め外宮の式年遷宮を復活させ、後を継いだ周養は織田信長から3千貫の寄進を取り付けました。その後は豊臣秀吉や徳川家康から庇護され江戸時代には歴代将軍家から式年遷宮費が賄われた事で再び隆盛しました。
特に一般民衆にも広く門戸を広げた為、皇大神宮の門前である宇治と豊受大神宮の門前である山田が飛躍的に発展し、宿所や茶屋、遊郭なども数多く設けられました。伊勢神宮の門前町が一大消費地になると河口である大湊港は物資の集積場として多くの蔵が建ち並び、伊勢街道沿いには全国からの参拝者が利用出来るよう旅籠や茶屋が軒を連ねました。宇治と山田にはある程度の権限が与えられ事実上の自治が行われ、現在でいう警察権と裁判権は幕府の出先機関である山田奉行所が請け負いました。明治時代以降は国威発揚の場として政府が庇護する一方で国民にも参拝を呼びかけた事でさらに多くの参拝者が訪れるようになりました。
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