名張市(歴史)概要: 古代の名張市周辺は重要視されていた地域とされ、伊賀地方最大である馬塚(全長142m、前方後円墳)や女良塚(全長100m、帆立貝式墳)、殿塚、貴人塚、毘沙門塚からなる美旗古墳群があり、大きな勢力の持つ豪族の存在が窺えます。奈良時代に編纂された日本書紀では「隠駅家」との表記があり大和地方と伊勢神宮を結ぶ街道の宿駅が置かれていたと考えられます。また、同じく奈良時代に編纂された万葉集にも「わがせこは いづくゆくらむ 沖つもの 隠(なばり)の山を 今日か超ゆらむ」など数首に名張の地名が見られ、当時から中央にも知られる存在だったと思われます。
そのような背景から夏目廃寺や宇流冨志祢神社が創建され文化的にも発展しました。中世に入ると複雑な荘園支配からの脱却を図る為、「黒田の悪党」と呼ばれる自治組織が発生、それらが武装化し自領地を守る必要性から、独自な武術、体術が開発され他地域からは忍者、忍術と呼ばれ恐れられる存在となりました。戦国時代に入っても同じような政治体制でしたが、織田信長の伊勢侵攻が強まり天正7年(1579)から天正9年(1581)にかけての「天正伊賀の乱」によって信長の支配下に入ります。天正13年(1585)筒井定次が伊賀上野領主になると名張城には家老である松倉勝重を8千3百石で配し天正15年(1587)からは桃ヵ谷国仲が名張領主となります。
関ヶ原の戦いで筒井家は東軍に与した為、引続き伊賀領が認められていましたが、慶長13年(1608)家臣同士の争いを抑える事出来ず改易となり桃ヵ谷氏も連座しています。その後、津藩藤堂家の領内に組み込まれ、寛永12年(1635)に藤堂高吉が今治領から移され陣屋を構えます。高吉は津藩主藤堂高虎に子供がいない時代に養子として藤堂家に入った人物で、その後、高虎に高次が生まれ事で冷遇されました。その為、歴代名張藤堂家は本家からの独立心が強く、度々大名家として認められるように画策しましたがその都度妨害され、享保騒動以後は津藩から多くの監視役が派遣され管理下に置かれました。
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