桑名市(歴史)概要: 市内には志知南浦遺跡や天王平遺跡などの縄文時代、西金井遺跡、蛎塚貝塚などの弥生時代の遺跡が点在し当時から人々が生活していました。古墳時代になると地名の由来でもある桑名首が当地域を開発したとされ御霊は桑名宗社(春日神社)に祀られ、墳墓は高塚山古墳(全長約56m、前方後円墳、北勢地方最大規模)と推定されています。当地は古くから交通の要衝として知られ額田廃寺や南小山廃寺、北小山廃寺と比較的早い時代から寺院が建立され壬申の乱(西暦672年)の時は大海人皇子が1ケ月に渡り陣を張り、藤原広嗣の乱(西暦740年)では聖武天皇が桑名を利用したとされます。
その後も榎撫駅が設置されるなど重要視され、平安時代末期には伊勢平家の拠点の1つとして大輪田泊(湊)が開発され貿易や物資の集積場として飛躍的に発展します。中世に入ると商人達が台頭し室町時代には「十楽の津」と呼ばれる事実上の自治組織による運営が行われます。ただし、軍事的には大きな戦力が無く、隣接する領主長島氏に責められと戦わず降伏しています。戦国時代に入ると中心的な大名は発生せず各地域の国人領主が長島にある願証寺(浄土真宗)に宗教的に団結しているという独特な支配体制が続きました。
織田信長が石山本願寺と対立すると、同門の願証寺も対立姿勢を明確にした為、元亀2年(1571)から天正2年(1574)の3年間、世に言う「長島の一向一揆」の末、信長の支配が確立します。当地域には滝川一益が配され、本能寺の変後も支配していましたが、台頭した羽柴秀吉と対立した為、賎ヶ岳の戦い後、長島城が攻められ没落しています。代わって織田信雄が領主になるも同じく秀吉と対立し改易、結局秀吉支配となり家臣達が城代として配されます。
江戸時代に入ると本多忠勝が10万石で入封し桑野藩を立藩、桑名城を築くと共に城下町を建設し現在の桑野市の基礎を築きます。元和3年(1617)、2代本多忠政は大坂の陣の功で姫路藩(兵庫県姫路市)15万石で移封になると山城伏見藩から松平定勝が11万石で入封、さらに元和6年(1620)7千石が加増され11万7千石となりました(その後、松平定房に7千石を分知)。寛永12年(1635)、2代松平定行が松山藩(愛媛県松山市)に移封になると大垣藩(愛知県大垣市)から松平定綱が11万3千石で入封します。定綱は定行の弟に当たる人物で定行の嫡男定頼が本家松平家を継いでいる為、3代目では無く初代とされます。その後も松平(奥平)家、松平(久松)家と親藩大名が支配し当地の重要性が伺えます。その為、徳川家との距離が近く幕末に藩主となった松平定敬は兄である会津藩主松平容保と共に幕府側の主力として各地を転戦しています。しかし、藩内では藩主が各地を転戦し不在であった為、新政府軍に恭順し桑名城も明け渡しています。
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