多度大社(北伊勢大神宮)概要: 多度大社の創建は不詳ですが背後にある多度山(標高403)は古くから信仰の対象になっていた霊山として知られ、中腹には磐座が存在し古代の祭祀場だったと推定されています。雄略天皇の御代(5世紀後半)に社殿が造営されると中央にも聞こえる存在となり、天平宝字7年(763)には満願禅師によつて神社の神宮寺としては日本の3番目の多度神宮寺が創建され、以後、神仏習合し宝亀11年(780)には境内に三重塔が造営されています。
多度大社は格式が高く延暦元年(782)には従五位下、承和11年(844)には四位下、貞観元年(859)には従二位、貞観3年(863)には正二位、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社に列し、伊勢国二宮となり、祭神が伊勢神宮の祭神である天照大神の第3御子天津彦根命だった事から北伊勢大神宮とも呼ばれ「伊勢に参らば多度をもかけよ、お多度まいらにゃ片まいり」と詠われるほど民衆からも信仰されました。
朝廷も庇護し、後一条天皇の御代(1016〜1036年)には東海道六社(多度・熱田・浅間・三島・香取・加島)に数えられ、天皇が即位すると1度は奉幣に預る大社として大神宝使が派遣されました。
歴代領主からも信仰の対象となり平安時代には伊勢平氏、中世は北畠氏が崇敬庇護した事で社運も隆盛し最盛期には別当である神宮寺は寺院70坊、僧侶300余人を擁する大寺院だったとされます。
元亀2年(1571)織田信長の伊勢侵攻の兵火により多くの社殿、社宝、記録などが焼失し大寺院だった神宮寺も焦土に化し、さらに文禄4年(1595)、豊臣秀吉が多くの社領を認めなかった為、再興出来ず境内も荒れた状態が続きました。
江戸時代に入った慶長5年(1600)に桑名藩が立藩すると初代藩主本多忠勝が多度大社を崇敬庇護し社領の寄進や社殿の造営などを行い再興されています。本多家が移封となり松平家が桑名藩主に就任しても信仰は変わらず社領の安堵や社殿の営繕工事は藩費によって賄われ、毎年正月には藩主の代参が必ず年始の参拝を行っていたそうです。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治6年(1873)に県社、大正4年(1915)に国幣大社に列しました。祭神:本宮(多度神社):天津彦根命・別宮(一目連神社):天目一箇命。
多度大社(北伊勢大神宮)の文化財
・ 金銅五鈷鈴-平安時代後期-密教法具、総高16.4p、口径7p-国指定重要文化財
・ 紙本墨書神宮寺伽藍縁起并資財帳(竹帙添)-奈良時代-国指定重要文化財
・ 銅鏡(30面)-平安〜鎌倉時代-直径9.2p〜12.4p-国指定重要文化財
・ 短刀(銘:(表)正重(裏)多度山権現)-室町時代-刃長29.4p-三重県指定文化財
・ 太刀(銘(表)元和八年戌五月吉日(裏)勢州桑名住藤原勝吉)-江戸-県指定文化財
・ 多度大社上げ馬神事-毎年5月4・5日奉納-三重県指定無形民俗文化財
多度大社:上空画像
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