光明寺(伊勢市)概要: 金鼓山光明寺は三重県伊勢市岩渕3丁目に境内を構えている臨済宗東福寺派の寺院です。光明寺の創建は天平年間(729〜749年)、聖武天皇の勅願により開かれたのが始まりとされます。
中世は当時の領主世木氏の氏寺として庇護され元応元年(1319)に月波恵観禅師によって天台宗から臨済宗に改宗しています。南北朝時代は南朝側の拠点として重要視され義良親王(後醍醐天皇の皇子)や北畠親房父子、結城宗広などが当寺を訪れています。
北朝の足利尊氏の勢いが増すと結城宗広は一端領地である白河(福島県白河市)に向いますが暴風雨により遠州灘で難破し当寺で死去(自決とも)、埋葬されたと伝えられています(津市の結城神社境内に埋葬されたとも)。
当時は伊勢神宮外宮に隣接する山田にあった為、梵鐘を鳴らすが禁じられていましたが豊臣秀吉の許可により唯一鐘楼を設けて鐘を鳴らすことが出来た為「光明寺の一つ鐘」と呼ばれました。
寛文10年(1670)、山田大火により当寺も焼失し、再建に関しては伊勢神宮外宮から離れるよう命令が下り現在地に移されました。往時は当地域の中心的な寺院として寺運も隆盛し塔頭4ヶ寺、末寺21ヶ寺を擁していましたが明治初頭に発令された神仏分霊霊とその後に吹き荒れる廃仏毀釈運動によって当寺以外は全て廃され衰微しました。
光明寺山門は切妻、本瓦葺き、一間一戸、薬医門。光明寺本堂は木造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、平入、桁行7間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、内陣には本尊となる阿弥陀如来像が安置されています。山号:金鼓山。宗派:臨済宗東福寺派。本尊:阿弥陀如来。
光明寺の文化財
・ 紙本墨書光明寺残篇−鎌倉時代末期−国指定重要文化財
・ 結城宗広並夫人書状−南北朝時代−国指定重要文化財
・ 木造阿弥陀如来坐像−平安時代後期
・ 紙本墨書光明寺文書(3巻)−鎌倉時代から安土桃山時代
・ 北畠親房御教書−南北朝時代−三重県指定有形文化財
・ 豊臣秀吉朱印状−安土桃山時代−三重県指定有形文化財
・ 光明寺境内石塔群−南北朝時代から室町時代−伊勢市指定有形文化財
・ 絹本著色結城宗広肖像図−江戸時代−伊勢市指定有形文化財
・ 木造勢至菩薩立像−平安時代−伊勢市指定有形文化財
・ 伏見天皇口宣案−永仁6年(1298)−伊勢市指定有形文化財
光明寺:上空画像
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