宇流冨志祢神社(名張市)概要: 宇流冨志祢神社の創建は不詳ですが三代実録によると従五位上に列した事が記され、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載、永徳元年(1387)には従一位に列しました。朝廷や歴代国司、鎌倉幕府などから崇敬庇護され社運も隆盛しました。天正3年(1575)、織田信雄の伊賀侵攻と天正8年(1580)の天正伊賀の乱などの兵火により多くの社殿、社宝、記録などが焼失し社領も認められなかった為、衰退します。
その後、領主となった松倉勝重が再興し社領の寄進が行われ藤堂高吉も引き続き崇敬庇護しました。
古くから神仏習合し別当寺院として龍淵山神宮寺院普応院が祭祀を司ってきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治4年に村社、明治14年に県社、明治39年に神饌幣帛料供進社に指定されています。
社宝が多く、天和3年(1683)に建立された石造鳥居と天和2年(1682)に奉納された石造手水鉢、能・狂言面(44面)が名張市指定文化財に指定されています。
宇流冨志祢神社:上空画像
|