伊勢神宮内宮(皇大神宮)概要: 伊勢神宮内宮の創建は崇神天皇の御代(紀元前97年〜紀元前29年)、全国で疫病が蔓延し祖神である天照大御神に祈祷してもなかなか収まりませんでした。そこで、天皇は宮中に祀っていた鎮座地が悪いと悟り天照大御神の御霊を笠縫邑に遷座し豊鍬入媛に祭祀させると不思議と疫病が収まりました。垂仁天皇の御代(紀元前29年〜紀元後70)、さらなる聖地に遷座を求めた天皇が皇女である倭姫命に命じて最適地を探させると、倭姫命は伊賀、近江、美濃を巡幸し垂仁天皇26年(紀元前4年)に伊勢へと辿り付きます。伊勢に入ると猿田彦の子孫とされる大田命に導かれ五十鈴川の上流まで来ると天照大御神の神託もあり当地に社殿を建立し鎮座したと伝えられています。倭姫命は伊勢神宮内宮の境内を整備すると共に祭祀や神職、神領、神宮の経営などを取り決め、天照大御神の神託を天皇の御杖代として奉仕したとされ斎王の祖とも云われています。
斎王は時の天皇の未婚の内親王や女王が任命され、天武天皇の時代に制度として確立し南北朝時代まで続けられ、6月、9月、12月の3回、天皇の代わりに伊勢神宮への参拝、普段は斎宮で暮らし瑞午、七夕、祈念祭、忌火、庭火祭、卜庭神祭、解除と祭祀を執り行われていました。伊勢神宮の祭主は神話にある天岩屋戸で祝詞をあげた天児屋命の子孫とされる中臣家で明治時代に社家制度が改変されるまで世襲し、改変以降は皇族、華族、公爵などが歴任しています。伊勢神宮内宮の御神体は天照大御神が天岩屋戸に御隠れになった際石凝姥命が製作した鏡で、瓊瓊杵尊が天孫降臨する際、天照大御神がこの鏡は私自身であると授けられものです。後に三種の神器の1つ八咫鏡と呼ばれるようになり現在は内宮の奥深くに奉置されたことになっている(八咫鏡は2つ、残りの1つは宮中にあり寛弘2年:1005年の火災でほとんど原形を留めていないとされています)。
天武天皇元年(672)に起きた壬申の乱の際、天武天皇は伊勢神宮内宮に戦勝祈願を行い見事勝利した事から神意に感謝し境内の整備が行われ持統天皇4年(690)からは20年毎に行われる式年遷宮が確立、社殿だけでなく御装束(衣服・服飾品・神座・殿内の装飾品・遷御の儀式品など)や御料、神宝(紡績具・武具・馬具・楽器・文具・日用品など)など全て古式のまま新調されます。所管の宮社は別宮10社(荒祭宮・月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮・・瀧原宮・瀧原竝宮・伊雑宮・風日祈宮・倭姫宮)、摂社27社33座、末社16社16座、所管社30社30座を有しています。
伊勢神宮内宮:上空画像
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