津市(歴史)概要: 当地は古くから京都から近く太平洋に面していた事から、京都の外港としての意味合いが強く重要視されました。当時は安濃津と呼ばれ、日本の重要港である「三津七湊」に数えられ中国からも日本三津(安濃津・花旭塔津:博多津・坊津)として紹介されていました。明応7年(1498)、東海沖での大地震により伊勢志摩には6〜10mの津波が発生し安濃津も大きな被害があったとされ、一時歴史上から姿を消します。内陸部では伊勢国守護の北畠氏の支配となり多気の霧山城を拠点として大名化し伊賀や大和南部にまで勢力を強め、海岸部では北畠氏に従っていた長野氏の一族細野藤敦が永禄年間(1558〜70)安濃津城を築き支配しました。織田信長が伊勢に侵攻すると長野氏の当主に織田信包(信長の弟)を養子として迎えますが、本能寺の変で信長が死去し羽柴秀吉が台頭すると、当初は従い15万石を領するものの、その後対立し改易されました(後に復権し柏原領3万6千石)。関ヶ原の合戦で、当時の城主富田信高は東軍に与した事で5万石から2万石加増され津藩を立藩、ただし、安濃津城は戦禍に晒され落城し城下も大きな被害を受けています。慶長13年(1608)、信高が宇和島藩に移封になると藤堂高虎が22万石で入封、地名を津に改めると津城の改修と城下町の整備に尽力し現在の津市の基礎を築きます。藤堂家は外様大名ながら徳川家の信頼が厚く伊勢、伊賀2国32万3千石まで加増を重ね12世に渡り藩主を歴任に明治維新を迎えています。又、城下町は伊勢神宮への参拝路にあたり、江戸中期以降爆発的に流行った御伊勢参りの参拝客が数多く利用し「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ」などと歌われ大きく繁栄しました。
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