関宿(歴史)概要: 関宿は古くから交通の要衝とされ平安時代初期に鈴鹿越えの街道が開削されると不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県)と共に古代三関に数えられた鈴鹿関が設置されました。鈴鹿関の場所や規模などは不詳ですが関宿の近くに聖武天皇によって築かれた西限の城壁があり当地域が重要視されてきたのが分かります。
天武天皇元年(673)の壬申の乱では大海人皇子が関所を閉鎖し東海道、東山道の諸国から兵を動員することができようにした事が勝利の一因になったとされ、延暦8年(789)に桓武天皇が関所を廃止するまでは重要視されました。
中世末期頃から宿場町として整備されはじめ、江戸時代に入り東海道が開削されると江戸から47番目の宿場町に定められました。
関宿は東海道と大和街道(伊賀街道)、伊勢別街道の分岐点として大名の参勤交代だけでなく、お伊勢参りの参拝者、物資の輸送者、旅人など数多くの人々から利用され、天保14年(1843)の記録では本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠42軒、飲食店99軒、家屋632軒あったとされ大いに賑わいました。
又、道幅が狭く関の曳山行事では山車が通ると人が通れなくなる様から「関の山」の語源になったとも云われています。
現在でも関宿の西の追分から東の追分まで約1.8キロの街道沿いには江戸時代後期から明治時代に建てられた町屋建築が200棟以上が残され「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している」との選定基準により昭和59年に重要伝統的建造物群保存地区に、昭和61年には日本の道百選に選定されています。
関宿:上空画像
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