鳥羽市(歴史)概要: 鳥羽市は古代志摩国に属し、古くから熊野灘と遠州灘の中間に位置していた事から海上交通の要衝として重要視されました。特に現在の鳥羽港は泊浦と称し、水深が深く、複雑に入組んだ地形から天然の良港とされ多くの船舶の寄港地として発展、伊勢神宮領として、泊浦御厨とも呼ばれ伊勢神宮に供える神饌を調進する場として主に海産物などが調進されたと思われます。鎌倉時代に入ると熊野海賊の横行が頻発し、事態を重く見た幕府執権北条氏は泊浦に守護所を設置し取締を強化しましたが、幕府の権威が衰えてくると次第に形骸化し再び海賊行為が活発となりました。
室町時代に入ると海賊衆が地域を支配するようになり志摩国では「志摩十三地頭」と称される海賊国人領主達により分断支配される事になります。その中でも橘氏は志摩国守護の北畠氏に取り入り国内2郡の支配権を安堵され現在の鳥羽城付近に館を構え泊浦の船舶を管理運営するようになります。戦国時代に入ると波切九鬼氏が台頭し九鬼嘉隆は織田信長や豊臣秀吉に臣従する事で後ろ盾を得て志摩国を統一し鳥羽城を築きます。
関が原の戦いの際は嘉隆が西軍、跡を継いだ守隆が東軍と形式上は父子で対立した形を取りましたが、実際は家名を残す手段だったとされ、守隆は所領を安堵され5万5千石の鳥羽藩を立藩しています。寛永9年(1623)、家督争いから九鬼久隆が三田藩、隆季が綾部藩に移封となり内藤忠重が新たな鳥羽藩主となりました。3代内藤忠勝は延宝8年(1680)に増上寺の境内で殺傷事件を起こし改易となり、その後、天領、土井家、松平家、板倉家、戸田家と続き享保10年(1725)に稲垣昭賢が3万石で入封するとようやく藩政が落ち着き、稲垣家が8世藩主を歴任し明治維新を迎えています。城下に隣接する鳥羽港は引続き重要港として整備拡張され、菱垣廻船や樽廻船などの寄港地として大きく繁栄し船宿は30余軒を数え遊女(はしりがね−船遊女)なども数多く存在しました。
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