創建年− | 斉明天皇4年(658) |
祭 神− | 大彦命・配神:少彦名命・金山比当ス |
格 式− | 式内社(大)・伊賀国一宮・旧国幣中社・別表神社 |
文化財− |
三十六歌仙扁額(12面:36図、安土桃山時代、狩野山楽作、近衛信基(近衛信尹の初名)筆、三重県指定文化財)
敢国神社の獅子舞(毎年1月3日、4月17日、12月5日に奉納、三重県指定無形民俗文化財)
湯釜(2個、慶長3年奉納、修験僧小天狗清蔵作、伊賀市指定文化財)
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神 事− | 例祭:12月5日・獅子神楽舞初祭:1月3日・獅子神楽舞上祭:4月17日 |
場 所− | 三重県伊賀市一之宮 |
備 考− | 敢国神社は斉明天皇4年に阿拝氏一族が祖神である大彦命(孝元天皇の第8皇子)を祀る社を設けて創建された神社です。ただし、近くには磐座と思われる大岩があり、古墳時代の祭具が発見されている事から少なくとも古墳時代から信仰されていたと思われ(南宮山の遥拝所かも知れません。現在は大石社として敢国神社の境内に祀られています)、隣接する佐那具町には大彦命の御陵墓と伝わる、当地域最大の前方後円墳(御墓山古墳:5世紀頃築造、三重県最大規模、全長188m、2段築成、葺石仕上げ、埴輪安置、周辺は堀で囲う、国指定史跡)が造営されています。一方、敢国神社の境内から程近い場所に位置する南宮山(伊賀小富士:標高350m)は古くから霊地として信仰された霊山で、南宮大社(岐阜県垂井町)の祭神である金山媛命(金山比当ス)が祀られていましたが、貞元2年に敢国神社に勧請合祀されていました(南宮山の山頂には現在、敢国神社の末社である浅間社が鎮座)。平安時代に成立した延喜式神名帳には格式の高い大社として記載され、伊賀国で最高位にあたる為、伊賀国一宮として国事の祭祀を司る立場となり、延長年間には朝廷から社殿が修造し、南北朝時代には、後村上天皇行幸、社領が加増されています。古くから神仏習合し最盛期には12坊を擁し大きな影響力を行使しましたが、戦国時代に織田信長の伊賀侵攻の兵火により境内が荒廃し衰微しました。江戸時代に入ると、津藩の支城である上野城から北東に当たる為、鬼門鎮守として藩主藤堂家から崇敬庇護され社領の安堵、社殿の営繕工事、社宝の奉納が行われました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当寺院として祭祀を司った南宮山神光院は廃寺となり社号を「敢国神社」に改め国幣中社に格付けられました。 |