伊勢神宮内宮(皇大神宮)は崇神天皇6年(紀元前92年)に天照大御神を笠縫邑に勧請したのが始まりとされます。当初は豊鍬入姫命が祭祀を司っていましたが、垂仁天皇25年(紀元前5年)に倭姫命が引継ぎ、天照大御神が鎮座する相応しい霊地を求めて各地を訪ねるようになり、垂仁天皇26年(紀元前4年)に伊勢国に入ると天照大御神の神託が下り、当地に祀るられるようになりました。当初は天皇家の氏神として天皇以外の奉幣は禁止され、天武天皇の御代(673〜686年)には斎宮が制度化され、天武天皇の皇女である大伯皇女が初代斎宮に就任しています。中世に入ると皇室以外からも広く信仰されるようになり、源頼朝(初代鎌倉幕府将軍)は養和2年(1182)に国家安寧の願文を奉じ、神馬10頭・金100両を寄進、神領の安堵を約束をしています。鎌倉時代後期の蒙古襲来の危機には国難打破の祈願が行われ、見事念願成就すると益々崇敬される事となりました。室町時代に入ると足利将軍家が篤く信仰し、特に3代将軍足利義満は何度も参拝に訪れています。江戸時代に入ると一般庶民にも信仰が広がり、「御伊勢詣り」と称して全国から伊勢神宮目指しておびただしい参拝客が訪れ、門前町は大きく発展しました。
伊勢神宮内宮(皇大神宮)正殿は神明造、茅葺、基礎部は掘立、高床式(弥生時代に高床式倉庫の形式を発展されたもの)、屋根端部には内削(水平切)の千木、棟には鰹木(10本)、外壁は檜材素木造り、華美な装飾は無く「唯一神明造」とも言われています。正殿は絶対の聖域で、周囲には瑞垣・蕃垣・内玉垣・外玉垣・板垣が5重に結界が設けられています。内玉垣の内側には正殿の他、その背後に東宝殿(神明造り、茅葺)と西宝殿(神明造り、茅葺)が平行に配され、外玉垣の内側には四丈殿(奉幣の際に、幣帛点検の儀が執り行う。)、板垣の内側には宿衛屋(神官が勤める場。)が配されています。
荒祭宮は伊勢神宮内宮(皇大神宮)に所属する別宮の中で最高位に格付けされた神社で天照坐皇大御神の荒御魂が祀られ平安時代に成立した延喜式神名帳にも記載されていました。風日祈宮は級長津彦命と級長戸辺命が祀られている神社で延暦23年(804)の「皇太神宮儀式帳」や延長5年(927)の「延喜式神名帳」にも記載されている古社です。特に風雨の平安と五穀の豊穣に御利益があるとして信仰され、鎌倉時代後期の、蒙古襲来の危機には戦勝祈願が行われ、見事神風が勝利に導いた事から別宮に昇格し「風日祈宮」と呼ばれるようになっています。
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