桑名市: 長島城

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概要・歴史・観光・見所

長島城(桑名市)概要: 長島城は寛元3年(1245)、藤原道家によって築かれたのが始まりとされます。その後、荒廃しましたが文明14年(1482)北勢四十八家の1人に数えられた伊藤重晴が再建しています。

その後も伊藤氏によって支配されてきましたが元亀元年(1570)、当時の願証寺の住職・証意の命で多くの一向宗門徒が襲撃し長島城は落城、一向宗の一大拠点となりました。この戦いで滝川一益は敗走し織田興長(織田信長の弟)は自刃に追い込まれています。

元亀2年(1571)、織田軍5万の軍勢が3方に分かれて長島に侵攻するものの大きな戦果を挙げず退却、退き様に一揆勢に襲撃され氏家卜全が討死するなど被害を出しています。天正元年(1573)、信長は2度目の大攻勢をかけ周辺の砦などを落として侵攻したものの、またしても責めあぐね、前回同様に引き際に襲撃され大きな被害を出しています。

天正2年(1574)、信長は3度目の大攻勢ではほぼ全軍の7万とも8万とも云われる大軍を長島に集結させ、九鬼水軍での海上閉鎖や大鳥居城や篠橋城の兵糧攻め、屋長島城や中江城の火攻め、降伏者の惨殺など凄惨な戦を繰り広げ、長島一揆勢を一掃しています。

北伊勢地方は滝川一益に与えられ長島城もその支配下に入りましたが、織田信長が本能寺の変で倒れると羽柴秀吉と一益は対立関係になり元亀2年(1571)に長島城が攻められます。一益は一ヶ月に渡り籠城戦を繰り広げましたが降伏し所領没収の上、丹羽長秀の預かりの身となりました。

その後は秀吉に従った天野景俊、原胤房、福島高晴が城主を歴任、関が原の戦いで高晴は東軍に付いた為、その功で大和国宇陀藩に加増移封となり代わって菅沼定仍が2万石で入封し長島藩を立藩します。2代藩主菅沼定芳は長島城の改築や城下町、領内の整備、新田開発などを行い元和7年(1621)に膳所藩(滋賀県大津市)に移封し長島藩は一時廃藩となります。

寛永12年(1635)から慶安2年(1649)までは松平定政が7千石で長島領を支配し刈谷藩(愛知県刈谷市)2万石で移封になると代わって那須藩(栃木県那須塩原市)から松平康尚が1万石で入封、康尚は徳川家康の異母兄弟の家系である久松松平家で、本家である小諸藩(長野県小諸市)の藩主松平憲良が死去すると一時断絶しましたが、徳川家縁の家柄だった為に憲良の弟である康尚が跡を継ぎ那須藩が与えられていました。

元禄15年(1702)、2代松平忠充が重臣を殺害した為、改易になると下館藩(茨城県筑西市)から増山正弥が2万石で入封、以後8代に渡り増山家が藩主を世襲して明治維新を迎えています。

明治4年に廃藩置県が発令されると長島城も廃城となり多くの建物が破却、払い下げとなり現在城跡は長島中部小学校・長島中学校の敷地となっています。唯一の遺構とされる長島城の大手門は蓮生寺に山門として移築され桑名市指定文化財に指定されています。

長島城:上空画像


長島城:ストリートビュー

長島城:写真

長島城
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