鳥羽城(鳥羽市)概要: 鳥羽の地は海上交通の要衝として知られ中世には橘氏の居館が築かれていました。志摩国を統一した九鬼嘉隆は愛染明王の御告げにより海上交通の要衝で三方を崖地とした要害の当地に城を築き文禄3年(1594)に鳥羽城が完成、築城に際しては大阪城の石垣で利用する為に三河国から切り出された石材を流用したと伝えられています。関が原の戦いの際は嘉隆が西軍、跡を継いだ守隆が東軍に付き父子での争いになりました。
当時、守隆は会津若松城(福島県会津若松市)攻略の為、小山(栃木県小山市)に布陣、その間隙を縫って嘉隆が鳥羽城を奪取します。
鳥羽城攻略を命じられた守隆は西軍に付いた氏家行広が守る桑名城攻略を優先しましたが、守隆が行広を破るとやむを得ず鳥羽城に侵攻します。嘉隆も鳥羽城での攻防戦は避け田城に本陣を移し、そこでの決戦となりました。
戦いは守隆有利に進捗していきましたが、本戦である関が原の戦いで西軍が敗れると嘉隆は日本丸(九鬼家の軍船)に乗って志摩へと逃れ守隆は加増され鳥羽良5万5千石が与えられました。守隆は加増分を破棄する代わりに嘉隆の助命を求め、一端は了承されたものの、嘉隆は潜伏先で既に自決していました。
寛永9年(1623)、守隆が死去すると5男久隆と3男隆季との家督争いとなり寛永10年(1624)、宗家が認められた久隆が三田藩(兵庫県三田市)3万6千石、隆季が綾部藩(京都府綾部市)2万石に移封されました。
代わって内藤忠重が3万5千石で入封、この時鳥羽城が大改修され、現在見られる城郭の原形が築かれています。延宝8年(1680)、3代内藤忠勝が増上寺で行われた法会の席上で、永井尚長(宮津藩主)を殺害、忠勝は切腹となり内藤家は改易となります。
その後、一時天領となりますが宝永9年(1681)、古河藩(茨城県古河市)から土井利益が7万石で入封。元禄4年(1691)に利益が唐津藩に移封になると唐津藩から松平乗邑が6万石で入封。
宝永7年(1710)に乗邑が亀山藩に移封になると亀山藩から板倉重治が5万石で入封。享保2年(1717)に重治が亀山藩に移封になると淀藩から戸田光慈が6万石で入封。享保10年(1725)に光慈が松本藩(長野県松本市)に移封になると烏山藩(栃木県那須烏山市)から稲垣昭賢が3万石で入封。稲垣家は8代に渡り藩主を世襲し明治維新を迎えています。
安政元年(1854)の大地震により多くの施設が崩壊、明治4年(1871)の廃藩置県の発令により廃城となり、残った建物も破却、払い下げとなりました。現在も郭の形状や石垣などの遺構が残り昭和40年に三重県指定史跡に指定されています。
鳥羽城:上空画像
|