関宿(東海道・宿場町)・町並み

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関宿・町並み
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【 関宿 】関宿の地名の由来は古代の関所である鈴鹿関が設けられた事に起因しています。鈴鹿関は大化2年 (646)にの朝廷により制度化され各地の要衝の設けら古代の関所の1つで、当地は近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境近くに位置していた事から重要視されました。特に近江国は京都と東国を結ぶ最終防衛線として想定されていたようで、近江国に侵入出来る、北陸道の愛発関(福井県敦賀市疋田又は敦賀市道口)、東山道の不破関(岐阜県関ヶ原町)と共に古代三関に数えられています。その後、関所は廃されましたが、東海道は関東などの東国と京都を結ぶ大動脈の1つとして引き続き利用され続けられ、当地は難所である鈴鹿峠を控えていた事から重要視されました。中世には関氏の支配地となり、現在も境内を構える関地蔵院は篤く庇護された事で信仰を広げ、門前町が宿場町的な機能を兼ねるようになりました。

戦国時代の天正11年(1583)に当時の当主関盛信が改めて町割を行い宿場町としての体裁が整えられ、江戸時代に入った慶長6年(1601)に幕府による東海道が正式に開削されると、宿場町に選定されました(江戸日本橋から数えて47番目)。又、関宿は交通の要衝でもあり、西の追分からは大和街道(関宿〜伊賀上野)、東の追分からは伊勢別街道(関宿〜津城下)が分岐していた為、参勤交代で利用する諸大名の他、旅人や商人が数多く利用し賑いました。特に江戸時代中期以降一般庶民にも行楽嗜好が高まると、伊勢神宮(三重県伊勢市)詣でが飛躍的に増大し、大和街道や東海道を利用した参拝者は関宿から伊勢別街道に入り、津(三重県津市)江戸橋で伊勢街道に合流し伊勢神宮に至った事から関宿を利用した人も多かったとされます。明治時代に入ると宿場制度が廃止となり、明治23年(1890)に鉄道が開通すると、徒歩での移動(交通)が急激に減少し宿場町としての役割を終えました。又、新たな幹線となる国道1号線が宿場内から大きく外れ為、極端な近代化が図られず、奇跡的に往時の古い町並みが残される結果となりました。関宿は国の重要伝統的建造物群保存地区と日本の道百選に選定されています。

【 関地蔵院 】関地蔵院は天平13年(741)に奈良時代の高僧として知られる行基菩薩によって開かれたと伝えられる真言宗御室派の寺院です。大同元年(806)には最澄の弟子が寺院として整備し堂宇が造営され、本尊が日本最古の地蔵菩薩として信仰が広がりました。室町時代には一休宗純が当寺を訪れ、「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」と詠い、立小便をして立ち去ったという伝説が残されています。元禄13年(1700)に造営された本堂と寛永21年(1644)に造営された鐘楼、寛永7年(1630)に造営された愛染堂は国指定重要文化財に指定されています。三重四国八十八箇所第28番札所。

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